オーストラリアにはさかのぼってみると1906年から始まる立派な映画製作の伝統がある。量からいえばアメリカやイギリスには及ばないがサイレント期には150本以上の長編を独自に作り出していた。すべてオーストラリア人の手により、自国の観客のためにオーストラリアのことを扱った作品で、海外に配給されることはめったになかったが、国内の多くの観客が見ることで結構な実入りになり記録的な数字が計上されていたのだ。
トーキーの時代になり他国の映画生産地、特にハリウッドがのし上がってくると状況に変化が現れ始めた。世界のほとんどの観客と同じように映画刺激に飢えていたオーストラリアの映画ファンたちがハリウッドやイギリス製のより気前のいい作品を好んでそれに殺到したため、国産の映画界がすたれ始める。
政府はこの事態に対し1920年代の終わり頃、国産映画上映館の分け前を保証するシステムを設けることで対処しようとしたが、それも力の衰えた製作現場を活性化するには有効に働かず1930年代から70年代にかけてオーストラリア人によって作られた映画はたった2、3ダースにすぎなかった。主要な業種はニュースフィルムへと移りやがてオーストラリア映画人はその分野で国際的評価を得るに至る。オーストラリア映画史の特記すべき一時代で、今も人々は郷愁を持って1978年に作られたフィリップ・ノイス監督の
" Newsfront " を回顧する。
自分たちの映画の未来を探るため、あるいは単に仕事を得るためオーストラリアの俳優、監督、作家それに技術者たちはやむなく祖国を後にした。一部はイギリスへ、他はアメリカへと。この彼らの栄光への脱出は後にオーストラリア映画界を復興させるために野心満々の輩を生み出すことになる。
メル・ギブソンが現れるまでの唯一の国際的スターは当時かろうじて存在していた国内映画界が作り出したタフガイのイメージが強いチップス・ラファティという俳優で、その名を世界的にしたのは第2次世界大戦を背景にした冒険もので " The Overlanders " ('46)だった。オーストラリア人が国内向けに作りイギリスの会社が出資した。
状況は60年代に入ると再び変わりだした。それはちょうどギブソンの一家がオーストラリアに移ろうかと考えていた頃であり、さらにこの時期政府が本腰を入れて国内にいる才能を養成するために国立の映画とテレビのための学校を設立しようとしていた頃でもある。
手始めに映画委員会なる組織が立ち上がろうとしていた。その目的は免税と補助金システムを通して国内の映画、テレビ番組、ドキュメンタリーなどの質を向上させ発展させていくための調査、支援だった。
その結果2つの映画製作のセンターといえるものができた。シドニーとメルボルン。1970年までにこの国の映画製作の運動量は20年代はじめ以来かつてなかったほどの勢いをつけ始めた。(現在では各州に映画製作の母体を持つにいたり、奨励制度と補助金のサポートを通して行われている)
ただし1本のフィルムにつき上限が100万ドルと予算補助は限られていた。「それは別にいいかげんに決められたことじゃなかった」こう私に話したのはメル・ギブソンをさらに広く知らしめたヒット作 " Gallipoli
"[誓い('81)]のアメリカ人製作総指揮者フランシス・オブライエンだ。「(100万ドルという数字は)十分経済的なんだ。つまりオーストラリアで莫大な金を使って作ったとしても回収できない。だってこの国の人口を考えてみればいい。たった1400万人。それも全員が映画館に来るわけじゃないからね」
言い換えればオーストラリアの映画界はいまだに国内での消費を優先的に考えていて、大胆にも海外にその手を広げることは結果を考えれば得るものは少ないだろうと踏んだのである。
オブライエンはいう。過去の戦争を扱ったGallipoliの場合300万ドルの予算を計上し、超過分は他のところから集める ー 事実この製作費はオーストラリア出身の二人の大物、ロバート・スティグウッドとルパート・マードックの懐に依るところが多い。外部からの資金調達は自分たちのプロジェクトを進める時、州が委員会の承認を得られない場合それをしのぐための必須事項となった。
以上のようなケースで始まったのがメル・ギブソンのスクリーン登場2作目でもあり、委員会での論争の的であった" Mad Max " だ。
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