Mad Mel, An Actor Not A Star - Biographyに代えて

 

いちばん肝心な人物紹介。どう記そうか迷ったあげく、この著者の考察はほぼ私のメル観と同じだと判断してお気に入りの本のイントロダクションを訳したものに決めた。長いのでちょっとした連載物語になる。

Biographical Introduction from :

"The Films of Mel Gibson" by John McCarty  2001

Translated by Carinya

 


 

出版社のためにこの本を書くことを決めた時点では、私は取り立ててメル・ギブソンのファンではなかったことを告白しておく。 このことは何も彼の俳優としての業績にケチをつけるといってるのではない。もしそうなら書くことなど引き受けなかっただろう;

つまり今までこれといって特別な関心を彼に払ったということがなかったというだけだ。出演作は全部見てなかったし、見たものでも彼が出ているということよりもそこに描かれているストーリーやジャンル、背景あるいはカメラの後ろにいる人物の才能やらに気を引かれるのがもっぱらだった - それが映画について書く物書きとして興味の眼の第一の付けどころなのである。

 

映画を愛するすべての人々と同じようにわたしにもごひいきのスターはいる。だが彼らは実に多くの人間が協力しあって一つの作品を作るチームの中でも嫌でも一番目立つ存在であり、興行収入に多大な貢献をしてるにも関わらず実のところ映画を「作って」はいないのだ - だから言うまでもなく脚本を書いたりとか演出をするということもなかった。

そんなわけで彼らを取り上げて本にしようという気はこの私にはさらさらなかった。 それなのに一人の大スターのキャリアを調べてみようという気にさせた裏にはある種の心境の変化があった。そういうものを書くことは何か新しいことに挑戦するということだけでなく、もし幸運に恵まれてそこにめざすテーマを見つけることが出来たらまた一つ新しいことを学ぶ楽しみが増えるというもの - 書き手にとって大切な発見はまた読者にとってもそうであることを信じるに至ったのだ。 

こうして出版者からこの企画を提供された時じっくり注意深く考えた。メル・ギブソンは大スターだ。オーケイ;これより大物はそうはいない。だがそんなことより彼は優秀なフィルムメイカーの何人かと一緒に働いたということもある。そして今は自らのプロジェクトを製作することに着手し始め、それらを監督することさえやっている。そこには記すべきことはもしかしたらゼロか、あるいはあってもほんの少しということになって結局私の本のタイトルがMel: The Actorなんて事になる恐れのために、尻込みしてしまうかもしれない。 だから承諾の返事をし仕事に取りかかってしばらくした時、私は心の底からラッキーだと思ったものだ。

 

リサーチをし、The Films Of Mel Gibsonを書いていく過程(その中にはすべての彼の映画を観ること、一度見たものも再びじっくり観察することも含む)で証明されたのは私の目から鱗が落ちたこと、そして書く価値がある経験だったということだ。 私はそこから新しいことを学んだ - 実際とてもたくさんの事を - 俳優メル・ギブソンについてだけでなく、いわゆる映画批評界の呆れるほどの浅薄で偏狭な捕らえ方とその量の多さもだ。彼らはギブソンの人気者にふさわしい外見に惑わされ、あるいは先入観に捕われ過ぎている。評価されるべき値うちのある彼の演技の才能や、映画作りに対しての情熱的な献身の両方は(あのハムレットのあとでさえ)真剣に取り上げられることはめったになかった。

簡単に言おう。彼にはスターの素質以上のもの、歴然と目立つ素質があるのだ。それは何もオスカーを得たことによってその兆しが認められつつあるわけじゃない。それは始めから存在していたのだ。 ******

 

その辛らつな回顧録Adventures In The Screen Tradeの中で、偉大な脚本家のウィリアム・ゴ-ルドマンは野心あるライター達にこう助言している。以下に述べるハリウッドに根付いているルールを命がけで無視せよ、と。そのルールとは「スター達は欠点のある役をあまりやりたがらないし、自分の名声や美しさに傷をつけるようなこともやりたがらない」そしてこうも書いている。「私の言わんとすることはすぐに分かるだろう」

もしこれがルールなら(と同時に、たいていのスターがそうなのだが)メル・ギブソンに関係した脚本家達 - ゴ-ルドマンその人のようなベテランから「ブレイブハート」のランダル・ウォレスのような新人まで - は同じように等しく、そのルールを敢えて無視したり注意を傾けるといった余計な苦労から解放されている。なぜならここに素晴らしい理由がある;ギブソンもこのルールなぞに無頓着なのだから。実際彼はそのキャリアのほとんどを、欠点や汚れや傷だらけの人物を演じることで過ごして来た。その偏向とも言える傾向はもっとも初期の役柄にさえ遡ることができるのだ。

 

クリント・イ-ストウッドのそれとギブソンのキャリアには何がしかの共通点がある。もっとも二人の演技スタイルには両極端とも言える違いがあるが(ミニマリスト的クリント対マキシマリスト的メル - 下記参照)。

 

ミニマリスト

芸術においてできる限り少数の単純な要素を用いて最大の効果を達成させる考えの持ち主。最小限妥協主義、最小限綱領主義。

 

マキシマリスト

もともとの意味はロシア革命時のボルシェビキを指した。一般的には妥協を排して最大限の要求をする人の事をいう。過激主義、最大限綱領主義。

 

 

ギブソンの場合、役柄を選ぶに当たっては常に一貫してそのスター性の殻を打ち破り、またイ-ストウッドの伝記作家リチャ-ド・シケルいうところの "観客の応援や支持をせいいっぱい活かす" ことによりその存在感をアピールして来た。二人とも大スターになる遥か以前に既に、活かすに足るファンの支持を得てそれをさらに伸ばすことに挑むという傾向を、役柄を選ぶ上での支配的な要素の一つにしたようにも見える。 

例えばそれぞれが演じた容赦ない殺人者(セルジオ・レオ-ネの低予算マカロニウエスタン「荒野の用心棒」におけるクリントの"名前のない男"、ジョ-ジ・ミラーのレオ-ネ作品への低予算オマ-ジュ映画でのメルの"マックス")、あらゆるハンデ、あらゆる敵に対して戦う殺人者のアンチヒ-ロ-的な言動は、観客に熱狂的に愛されこれらをして二人がスターダムへの道を歩み出したのはいうまでもない。

ずいぶん後になって、クリントは荒っぽいお巡りを演じ「ダ-ティ・ハリ-」シリーズを有名にしたし、メルはメルで自暴自虐的な刑事役で「リーサル・ウェポン」シリーズに大金をもたらした。後に二人とも監督業に乗り出すことになる。共通点はまだまだ出て来るかもしれない。

 

さらにここに特筆すべきテーマが浮かび上がって来る。メル・ギブソンの映画には顕著な一貫性があるのだ - 出演したものはもちろんクレジットに名前こそ出ることはなかったが、彼が大事に暖めた企画の数々にも。

つまり彼が役や脚本を選ぶ時、決して行き当たりばったり的な優柔不断さがない。まだ選択できる立場にないような極く初期のヒヨッコの頃ですらそうだった。その結果彼の企画はおのずと彼を求めた。

これらのテーマには、成長過程での苦しみや責任・義務といったものと折り合っていくことの難しさ、それを乗り越えて成熟の域に達する - トラブルやトラブルのネタは、大人になっても止まることがない事をギブソンは一人の男であると同様一人の俳優としてよく承知している。そのテーマは一番最初の「私的プロジェクト」といっていい「メル・ギブソンの青春グラフィティ」の中に既に存在している。この本で順次明らかにしていくようにさらに多くの興味深いテーマが、この俳優が企画の立案のみならず、脚本家や監督として一人前に肩を並べることができるということを示していくはずだ。

 

 

この本について最後に一言。明らかに伝記的な部分が少なからずあるが、この本は彼の伝記ではない。

自伝を書いたらどうか、あるいは「公認の」誰か他人に書かせてはどうかといった類いの誘いには、ギブソンは首を縦に振らない。(毎年映画が出る度に儲かるかもしれないという理由で彼の頭越しにこの手のバカげた企画が飛び交っている)と同時に、大スターになってから出版されたおびただしい数の「非公式」本については、いっさい我関せずという姿勢を貫き通している。彼はたとえ映画スターといえど幾分かのプライバシーは尊重されるべきだと信じ、自分と家族がおかされないために非常な努力を払っている。そして彼の考えはこうだ。彼について知る必要、あるいは知る権利があると思われるなら、一番重要なことはスクリーン上に歴然と現れているものを見ることだと。

 

そういうわけでゴシップが目当てなら他の本を当たってもらおう。このThe Films Of Mel Gibsonはあくまでも彼がスクリーン上とディレクターズチェアで成したことにスポットをあてている。とはいえその映画の多くは彼そのものを言及してるだけでなく、その人柄・思想・感情などを自然に映し出しているのは明らかでその独特なポートレートを無視するわけにはいかない。これも彼が成していることだ。これらを踏まえた上で、さて、考察に入って行こう。

 

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 1995年度アカデミー賞授賞式で、彼の叙事詩大作ブレイブハ-トに作品・監督賞のオスカーが与えられたことは、かつてピ-プル誌によって表面だけをあげつらっての「現存する一番セクシーな男」という称号をもらったこの国際的なスーパースター、メル・ギブソンを見る我々の視点に、新しい方向づけを知らしめる事になった。

 

大看板にあげられるその名が、まずほとんどその映画の成功を保証できるような数少ない俳優の一人としてだけではもはや満足せず、この現在40をちょっと過ぎた(1997年当時)アメリカ生まれでオーストラリア育ちのスターは、カメラの前に立つのと同じくらいの時間をカメラの後ろに回ることにその身を捧げた - 「すべての」ショットを自分自身のものと呼ぶために。 

このことは彼の信望をさらに確固たるものにし、その進む道を通りやすくする強烈なヒットをこの業界に打ったことになる。そうして1本につき法外とも言える2000万ドルプラス何がしかのサラリーを受け取る資格と国際的な人気をさらにものにした、ほんの一握りの選ばれた俳優の一人になった。 

 

その存在をはっきり世に知らしめたオーストラリア産カルト映画「マッドマックス」で、あの独特な声は何とそのオ-ジ-訛りのせいでアメリカ人には「たぶんチンプンカンプン」という理由を付けられ、配給元によって吹き替えられてしまったというスタートを切った役者にしては、現在のステータスは悪くない。そしてこうも言える。もしベトナム戦争がなければ、さらに70年代から80年代にかけてのオーストラリア映画の爆発的な発展がなかったら、彼の名は生まれ故郷のアメリカでは決して聞かれることはなかったかもしれない(つまりいい時にいい場所にいたということだ)。

   

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メル・ギブソン(本名:Mel Columcille Gerard Gibson メル・コラムキル・ジェラード・ギブソン)は、1956年1月3日ハドソン河ぞいの小さな街ピ-クスキル -- この俳優のプロフィ-ルを語る多くの記事にしばしば "ニューヨーク州の田舎町(upstate New York)" と紹介される -- で生まれた。 面白いことにニューヨークシティの住民もこの言い回しをよく使う。マンハッタン島の北に位置する州内のどの街も田舎と呼んでいるのだ。実際はピ-クスキルは独立戦争以前の18世紀、オランダ人が入植して作った小さな村が発展したもので、この州内でも最も古い街の一つなのだが;そこはマンハッタンから車で約30分の距離で、住めば - 私も近くなんだが - わかるが実際にはそれほど田舎じゃない。まあオーストラリア風にいえばちょっと奥地(the outback)といったところだ。

5人の女の子と5人(後に養子を迎えて6人)の男の子からなる11人きょうだいの6番目として生まれたメルは、アイリッシュカトリック系オーストラリア人の血を引いている。

 

メルという名前だが、1988年のプレミア誌のインタビューでティム・カヒルに語ったところによると、メルヴィン、あるいはその他の似たような名を縮めたものではないということだ。「単にメルなんだ....実はアイルランドの古い人名で、あそこには聖メルの大聖堂ってのがあるよ」 コラムキルというまんなかの名前は、彼の亡くなった母アンの生まれたアイルランドの地方に由来している。ゲ-ル語でその意味は「教会の鳩」という。ギブソンの一家はメルも含めてとても敬虔なカトリック教徒だ。

彼のあまり知られてない仕事の一つに、1992年の宗教ドキュメンタリー Greatest Stories Ever Told: David And Goliath (ダビデとゴリアテ)のナレーション担当というのがあるのを御存じだろうか。 彼と妻のロビンは産児制限をいっさいしてないし、もちろん妊娠中絶に関しては反対の立場をとっている。彼の父はキリスト教の伝統主義に教理上の限りでは忠実な人物で、第2回バチカン公会議で従来の教義の幾つかがリベラルな方向に改革されたことを憂いて、論争の的になるほどの批判的な著書を現在までに幾つか出版している。 

メルの父方の曾祖父に当たる人は、1862年にアイルランドからオーストラリアに移住して来た。一族の名はマイロット(Mylott)だった:娘が生まれエヴァと名付けられた。長じて彼女は20世紀始めの頃オーストラリアでもっとも有名なオペラ歌手の一人となる。 第一次世界大戦が始まる少し前にアメリカに渡ったエヴァ・マイロットは、時をおかずタバコ産業に携わっていたスコットランド系南部人ジョン・ハットン・ギブソンと知合い結婚し二児をもうけた。ハットン2世(メルの父)とマイロットである。エヴァは1920年に亡くなるまでアメリカにいたが、オーストラリアの市民権は決して手放さなかった。これは後に一家にとって重要な影響を与えることになる。

 

ハットン・ギブソンは母親からすばらしい歌唱力を受け継いだが、一生の仕事とすることはしなかった。同じように父親のビジネスを継ぐということもしなかった代わりに、ニューヨークセントラル鉄道の制動手になる。 飽くことを知らない本の虫(メルもそうだ。ただし彼の場合は始めからじゃなく若い頃はもっぱらテレビや映画三昧で読書はその次だった)であるこの人物は、そのバラエティに富んだ広い知識を活かしてテレビのクイズ番組「ジェパディ!」で賞金2万ドルの大当たりをとった事がある。この金の一部で妻と11人の子供を伴って、さらに「田舎」のサルズベリ-ミルズ地区に移り、もっと大きな家を手に入れて落ち着くことになる。これが1962年の事だ。

間もなく仕事中の事故により背中を痛めてしまったハットンは、普通の仕事に永続的につけなくなる。それと前後して長男に忍び寄って来る議論の的だった例のベトナム徴兵に対する懸念や(後のインタビューでメルは、この件に関しては大きな理由ではなかったとただしている)、自分を縛る仕事もないという立場からある決心をするに至った - できるだけ早いうちに遠くへ移ること - 今こそ一家そっくりを母の故郷であるオーストラリアに移すのに障害者生活扶助として得た47万5000ドルを有効に使う時期だということを。 

 

オーストラリアには移住に関する厳しい法律がある。家族に市民権を持つものがいるか、又は雇用関係が確立しているかだ。ハットンには後者のつてはなかったが、前者を持っていたので(母エヴァが固持していた市民権が大いに役立ったわけだ)1968年ベトナム論争のまっただ中にアメリカを離れ、ヨーロッパ旅行を経てシドニーに落ち着くことになった。 当時12歳だったメルにしてみれば、住み慣れた土地を離れ新しい場所に順応するのに始めのうちはすんなりというわけには行かなかったらしい。「近所の子供達からヤンクって呼ばれてずいぶんからかわれたよ」 1983年のあるインタビューでこう言う。「これに関しては結構つらい目に逢ったな」 ギブソン一家は恒久的にオーストラリアの住民になった後でさえアメリカ市民権を保有してるので、今日に至るまでメルは依然ヤンクと言えるかもしれない。あるいは完全に帰化してないオージーとも言える。

 

国際的スターで興行収入にも大いに貢献してるマッドなメル・ギブソンが、我々に与えているスクリーン上のイメージやこけおどしに近いほどの向こう見ずな演技を見て、彼を昔から知ってる友人や教師達は一様に驚いてこういう。「根本的にすごく内気でシャイな男なんだ」実に多くの友人や同業者は、彼の評判や人気にも関わらず彼はいまだに恥ずかしがり屋だと力説する - その外交的なイメージは仮面なんだと。 その一方で、若い頃のメルにはいつもなんらかの騒ぎを起す奴という評判がつきまとっていた - ことによると内気さや一風変わった言動をそれによって相殺させるために - そして不遜なユーモアのセンスにもとり憑かれてると。まだある。聞くのも好きだが同じくらいきわどいジョークを話すことや、よくぞというほどのだじゃれを楽しんでいたりしたのだ。

だいたいいつもドタバタを好み、特にThree Stooges(三馬鹿大将)風のおふざけは大好きで時々皆の前でわざとその手にへマを演じたり、さらに大胆な芸や離れ業を披露して予想もしない時に友人達を釘付けにし、腹を抱えさせる。彼のそういう脱線行為をしてMad Melなるニックネームを導き出したのはいうまでもない。

 

おそらく舞台に関しての才能を先祖から受け継いでいると感づいたのか、姉の一人メアリ-が名門ニュ-サウスウェ-ルズ大学付属の国立演劇芸術学校(NIDA)への入学申し込みを弟にけしかけた。1974年彼が高校を卒業した頃の事だ。彼は興味を持つ。将来何をしたいかまだはっきりしないままぶらぶらしてる代わりに、いろんなタイプの、骨の折れるちょっと妙な役者という仕事をするのも悪くないと思う程度に。当時別の職業が頭の中でチラチラしてたのだが、このふらっと舞い込んだ(最終的に彼の天職となる)チャンスに乗ってもいいかという程度に考えた。彼はシェフかジャーナリストになりたいという余り真剣じゃない夢を持っていたんだが。

 

実際はメアリ-が密かに取り寄せ勝手に書き込んだ願書の提出により、オーディションに来られよという通知を受けた時、始めは彼は姉のやらかしたことに戸惑い焦ったが、そのうちどうにでもなれと半ばやけくそな気持ちで面接に出向いたという。

 

「彼らは僕に考えられるあらゆるバカげたことをやらせたよ - 即興劇、歌、ダンス.....全くゾッとしないね」1981年の彼の回顧の言葉。だが面接官が願書を出した動機と役者になる理由などを尋ねた時の彼の無愛想な答えはこうだった  ー 「ずっと長いこと道化ばっかりやってたから、そろそろそいつを役立てて飯が食えるんじゃないかと思って」ー  彼を入学させようと決めるに充分面接官たちを面白がらせたのである。「たぶん僕の中に未開で粗野だが何か新鮮なものを見たんだろう」今振り返って言う。

 

  Biography Part 2


 

Mel on the COVER

BRAVEHEART

Happy 15th Anniversary

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Variety, USA 1995
Variety, USA 1995

新しい年を迎えた。2010年。皆様におかれてもさらに良き年になりますよう。

日付けは1月2日になってるが、もう3日。1月3日と言えばメル・ギブソンの誕生日。「おめでとう、メル!」のついでに毎年この日に新年のご挨拶をしてる(^^)。

 

メル・ギブソンのファンサイトを運営する私にとっては、今年は楽しみが多い。公開を控えた2本の主演映画、監督するのが決まってるもの1本、春頃開始の主演作1本と久方ぶりに映画人メルがおおいに動く。できるだけ追っていきたいと思うが、また今年はたった4ページから初めた本サイトの10周年、さらにWhat Women Want 「ハート・オブ・ウーマン」のロスアンジェルスプレミアに幸運にも参加でき、幸運にも生身のメルギブソンに会えた記念すべき出来事の10周年も迎える。

10周年?! なんてこと、紀行文はそのうち書きます...などと言いつつ忙しさにかまけ、さぼってたら10年! 最近ひとしお思う。地球の自転が実は密かに速くなってるんじゃないかと....大昔古代マヤ人が予言してたのはこの事じゃないかと。しかし嘆いても仕方ない。自転は停まってくれないだろうし、やることはいっぱい。せめて10周年記念として上記プレミア紀行文でもアップしよう。

 

さて去年の暮れ続けてジャンルは同じ恋愛ドラマになるだろうが、全く毛色の違う2本を観た。ひとつは鑑賞券を得て久しぶりの劇場でロードショウとして、サンドラ・ブロック主演The Proposal「あなたは私の婿になる」を楽しんだ。

S・ブロックは好きな女優の一人だ。いったい美人なのかセクシーなのかよくわからない雰囲気が気に入ってる。コメディでは笑わせてくれるし、筋肉質に近い体つきに見えるがグラマラスなのもいい。

やり手のカナダ人キャリアウーマンがヴィザの更新ができないため、とっさに部下の若い男との偽装結婚を思いつき、彼の実家に行くはめになりドタバタが始まる。大都会シカゴからおおらかなアラスカに行くくだりは傑作。そこに行って部下の実家が土地の素封家でお屋敷のような家を見て驚くブロックの演技も最高。

しばらく見ればもう結末は推して知るべし。アメリカのロマンチック・コメディなら複雑な筋立てなし、不幸な結末なし、スピーディな演技とファニーな台詞、一人か二人の意地悪な妨害役...と約束通りの展開で、それでもブロックのうまいコメディエンヌぶりがおおいに笑いを誘い、ハンサムな相方、ライアン・レイノルズがちょっとすっとぼけた人のいい役回りで、あれよあれよと言う間に二人は本物の恋に陥る。ところでこのレイノルズ、確かにいわゆるイケメンで日本の女の子好みのように感じられたが、残念、私の好みじゃない。40歳くらいになったらどうかな。

安心して座席に身を預けられる映画の典型だ。問題提起や意識を刺激される事もあまりない。単純に楽しむ映画。この手の映画はアメリカならではだろう。アメリカの観客のためのアメリカ的ロマンスもの。以下に書くフランスの恋愛映画なんてきっとアメリカじゃはやらないだろう。

 

1962年フランス/イタリア合作 Le Repos Du Gerriere 「戦士の休息」。すでに別れてはいたが、妻だったブリジット・バルドーを主演に迎えたロジェ・バディム監督作品。同じ恋に陥っていく男女を描いてもこうも違うのかとあらためてフランス映画の妙を見せつけられた思い。この映画は昔一度劇場で見て、BB(ベベ)のふくれっ面の愛らしさにうっとりし、音楽の美しさに魅了されたのを覚えてて、今回ふと思い出しレンタルしたのだが、当時「戦士の休息」(原題通りの訳)と言うタイトルの意味するところが当時よくわからなかった。

偶然に出会った男に惹かれ一緒に暮らし始めるが、この男が何か病理的な暗さを持ち、不実なのだ。フランス映画、特に恋愛ものはアメリカの言ってみればわかりやすく結末まで読めてしまうようなプロットの作りよりも、なぜだかわざわざこちらをイライラさせるような演出や脚本になってる事が多い。実はそういうところも含めてフランス映画が好きなのだが、アメリカ的ストーリー展開に慣れてしまうと、とても不自然に感じられるかもしれない。

しかし実際の男女の心の機微とは単純なものではないし、はたからみれば不自然な行動や言動がつきものだ。この映画もそういう意味では単純でなく自然でない。つまり二人は知ってか知らずか心理的駆け引きをしてるのだ。駆け引きというより戦い。男が勝ってるように見えてその実、最後に笑うのは女。イタリアの廃墟の中で最後にBBにすがりついて愛を乞う男に対し、長い金髪を風になびかせ泰然と微笑むあのラストシーンがまさに戦い終えた戦士の休息なんだろう。つまり休息であってまだ戦いは続く...と匂わせる。男女の心の機微は尽きない。

2つの全く毛色の違う恋愛映画を見終わって、2つともそれなりに楽しめるが、私にとって心に残り、刺激を受け、女主人公になった妄想を楽しめるのは古くても不自然でも「戦士の休息」のようなフランス映画だなとあらためて認識した次第。

 


 

Last updated 10/23,2015

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